小学生の頃、3世代家族の子が羨ましかった。
おじいちゃん、おばあちゃんがいる家庭の子は感性が豊かだったからだ。
クラスメイトの中で、3世代家族の子の大半がお盆休みやお正月に集まるという親戚や実家と呼ばれる家族のイベントに参加していて、面倒くさいとか不平不満を漏らしていたけれども、あんなことがあったこんなことがあった、と楽しそうに語ってくれた。
自分は、語る事も参加することもできない家の事情に小さい時ながら「欠けている」寂しさを覚えた。
中学生の時、父方のおじいちゃんが我が家で住むことになって、心が沸いた。
「これで私もみんなと同じになれる」
けれど、家の中でおじいちゃんは異物だった。
7人家族だったが、そこに更に増えたのだから、お揃いの食器が7人分に一人だけ食器が違う。
明らかにプラスアルファ扱い。
7人家族という認識のメンバーの中に、1人だけ家族と捉えられない存在だった。
「なんで家の中にずっといるんだろう?」と子供心に疑問に思った。
欲しいと願っておきながら身勝手なものである。
この経験で気付いた。おじいさん、おばあさんがいたら、セットで仏壇も法事も親戚が大勢集まることも、大きな家族旅行もお盆のときにBBQをしたりお墓参りをしたり、田んぼや畑、母屋、広井敷地がついてくるわけじゃないことに。
前提として、やっぱり「ない」ことに気付いた。
父方の祖父は鉄道員だったそうで、そもそも大きな田んぼを持っていたことがなかった。
父の兄弟は多かったが、父は末の弟で兄や姉からあまりに大事にされておらず、そのため父自体が「家族愛」というものを肌感覚で知らない人だった。
母も、周囲に自慢できるような育ちをしていないから、ずっと口を噤んでいた。
「家族仲良し」なんて、フィクションで、実体験してないのだ。
だから、家族にあこがれた「家族ごっこ」を不器用ながらしていたというのが分かった。
だから、いつだって空々しい空気を感じていたし、なんだか虚しい気がしていたんだなと納得した。
7人家族で育ったのに、砂漠にいるかのように寂寞として孤独感が強かった。