「とうとうここまでやって来たよ」と報告。
39歳。
長い道のりだったけど、思い返せばあっという間だった。
学生期間のなんと一瞬なことか。
16年学生をやったが、社会人は17年やったことになる。
しかも、これから生きてる限り更に社会人の経歴は長くなる。
行く先は、無へ還る事になるんだろうけど、まだ当分先の話。
いつだって、もうダメだこんな人生辞めたいなんて凹んだけど、いつだってその時ご縁があった人々に支えられてきた。
どうにか生きてこれた。
「社会の役にたってない人なんて1人もいない」
昨日、人から聞いたこの言葉が随分と心に染みた。
仕事をしていない人間は、生きてる価値があるのか。
身近な人に金銭的にも精神的にも負担を敷いている人間は生きている価値があるのか。
生きる意思もない、成長意欲もない人間は、果たして存在価値はあるのか。
疑問に疑問を重ねても答えは出ない。
ただ、目の前のことに集中すれば自ずとそんな事を考えてる暇はなくなる。
だから、無我の境地に至れる時間は心が安らいだ。
見たくないものを見ずに済むからだ。
仕事をしてなくて、家でぼんやりしてる時。
社会で多くの人が誰かのために汗水垂らしてる中、自分はダラダラと散歩してる時。
たまに虚しくなる。
自分は何をやってるんだろうと。
空っぽの状態で、それでも空っぽになりきれず肉体を持って存在していることが恨めしい。
このままではまずい。
また気狂いしてしまう。
墓前に手を合わせた時、思い起こすのは小さい時家族6人と墓参りに来たことだ。
敷き詰められた墓石の隙間を縫うように歩き、狭い小路の合間で6人しゃがんで手を合わせた。
目の前に居ない会ったこともないのに祖母に挨拶しなさいと言われて、まったく意味がわからなかったけど見様見真似で目をつぶり手を合わせた。
あの、小学生だった幼子が今は立派に成長して大人になっている。
無垢だった頃から随分と様変わりして、世の中の複雑さを知った。
「どれだけ懇切丁寧に話しても、通じないこと」
「人は見たいもの、聞きたいものしか認識しないこと」
「どれだけ自分が人生に絶望しようとも、人生は人間に絶望していないこと」
夢見る夢子ちゃんでいたかったけれど、ついに夢が醒めたような心地だった。
「もう充分長生きしたから、そろそろ死にたいんですけど」とボヤいたが、そばに居た60過ぎの男性に「何言うとんじゃ」と笑われた。
なんとも自分は間抜けな発言をしたなあと舌を出す。
まだまだ、もっと大変な時期がくるという。それを現在進行形で味わっている60過ぎの男性の言葉は、柔らかで穏やかなのに深みがあってすっと心に染み入る。
ありがとう。